
Myヒストリー
当方の記述をA Iが推敲し、更に当方がアップデート。
1.岡田政人 自己紹介(幼少期〜青年期)
2.青年期の彷徨と実践——原動力
3.転機と実践——挑戦の軌跡
4.福岡営業所から広がる挑戦——実践力
5.全国展開とDTP事業の立ち上げ——突破力
6.映像とDTPの深化——技術と表現
7.計画趣旨:福栄会2TVプロジェクトとは
8.プロジェクトの目的
9.なぜ今、なぜこの方法なのか
10.プロジェクト名
11.背景と問題意識
12.プロジェクトの目的2
13.実施内容
14.ビジョン
15.計画の骨子:ゼロからの再起と地域メディアの再構築
16.計画の転換点と新たな骨子(要約)
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1.岡田政人 自己紹介(幼少期〜青年期)
私は、いわゆる“団塊の世代”のど真ん中に生まれました。焼け跡と闇市の記憶が残る佐世保の町で、裸電球の下、風鈴の音に包まれながら育った幼少期。家電はゼロ、湧き水を飲み、イモリが泳ぐ水場で洗濯をする日々。共同井戸が掘られたときの感動は、今でも鮮明です。
空には進駐軍のジェット機が飛び交い、音の壁を破る轟音が腹に響く。米軍戦車が目の前を通り過ぎる光景も日常でした。舗装されていない道、爆弾跡のすり鉢状の広場、満天の星空。敗戦の余韻と、再生の息吹が混ざり合う時代でした。
家族で出口地区に移り住み、大改築を重ねながら家を作り変えていきました。風呂、縁側、池、井戸、勉強部屋——すべて手作業で。私は道具係として、ノコギリを持ち、ハシゴを支え、家づくりの一端を担いました。
裏の田んぼではカエルが大合唱し、裸電球の周りには虫が飛び交う。拾った子猫は7匹に増え、子犬はどこへでもついて来る。ヒヨコは布団に潜り込み、ジュウシマツは縁側で遊び、雷魚は池で暴れ、蜂の巣は火で焼き落とす。そんな自然と共にある暮らしが、私の原風景です。
鍵をかけずに眠る夜。プロレス中継には近所が集まり、正座で観戦。轟湾ではアサリが取り放題、梅並木では梅が取り放題。育てられた作物だけはタブー——それが地域の暗黙のルールでした。
中学では天神山を越えて通学し、高校では自由と失敗を味わいました。進学校での学びの中、早稲田と慶応を志すも、突如として脳に異変が起こり、世界がグレーに変わる。痛みと混乱の中で、自分を見つめるもう一人の自分が現れ、正気と狂気の境界を知ることになります。
ある休み時間、背後から聞こえた氷のような声。「オ・カ・ダ・サ・ン、ナニシニガッコウニキテイルノ」。その瞬間の記憶は、40年後の同期会で再び蘇り、過去の出来事が一本の線でつながりました。謝りたかった言葉、言えなかった想い、そして壊れていく自分を見つめる日々——それらすべてが、私の原点です。
2.青年期の彷徨と実践
高校卒業時、進学も就職も決まらず、父の手配で陸上自衛隊に入隊。対馬での任務は、札付きの若者たちと共に過ごす濃密な日々でした。夜間演習での失敗、銃剣を突きつけられた経験、そして部隊の中での奇妙な人間模様——それらは、社会の裏側と人間の本性を垣間見る機会でもありました。
除隊後も父の手配で本田技研に入社するも、工場を見た瞬間に「これは違う」と直感し、即退職。その後は佐世保で失業と職安通いの日々。働く意欲は湧かず、パチンコと放浪を繰り返す中で、社会との接点を模索していました。
米系飲料会社「セブンアップ」に入社したことで、再び社会との接点を得ます。高校の先輩たちとの再会、そして“半グレ”のような相棒との日々は、まるで映画のような濃密な体験の連続。トラック事故で川に転落し、顔面血だらけで病院に運ばれたこともありました。
病室では相棒が“ホテル化”させる騒動を起こし、屋上では水道管でチャンバラ。暴力事件を起こして長崎へ飛ばされ、そこは会社の“流刑地”のような場所。裸で風呂へ通う日々、夜の街での奔放な振る舞い——それらすべてが、若き日のリアルな記憶です。
そんな中で出会った彼女と、セブンアップ退職後に佐世保・唐津・福岡を車中泊で放浪。社会の枠から外れながらも、人とのつながりと、自分自身の輪郭を探す旅でした。
3.転機と実践——挑戦の軌跡
ある日突然、脳天に稲妻が走り、「こうしちゃおれん」と思い立つ。北九外大を卒業し堺の会社に勤めていた長男に電話し、即大阪へ向かう決意。車を叩き売り、彼女を連れて夜行列車で大阪へ。その後、京都の四条でヤクザの親分と殴り合い、五条では彼女の件で男三人と揉めに揉める——常識も何もない、精神的に極限状態だった時期。
不思議なことに、彼女と一緒にいると頭痛が消え、離れると再発。まるで、かつての“神〇久〇子さん”の神通力が彼女の存在で遮られていたかのよう。やがて彼女に去られ、当時は「捨てられた」と思っていたが、今振り返れば「捨てたのは自分だった」と痛感する。彼女は17〜18歳、私は20〜21歳だった。
その頃、鶴丸運輸株式会社に入社。面接で「早稲田か慶応を志望していた」「得意科目は英語」と正直に答えたことで即採用。神戸勤務となり、外航船への給油立会いを担当。スーツ姿で黙々と働く姿に、周囲は“それなりの人物”と誤解。コンテナ船団の機関長との激しいやり取りも、逆に信頼を得るきっかけに。瀬戸内全域を一人でカバーし、出張続きの多忙な日々が、彼女との別れの原因にもなった。
神戸沖でタンカーのキャプテンが亡くなった事件では、現場対応と通夜参列を通じて社内での評価が一変。「人間はマナーがすべて」——この言葉が胸に残る。
関西外国語短期大学では、学びよりも恋に没頭。一目惚れの彼女一本で、以上。
鶴丸勤務中に、幼なじみの楠本くんから誘われ、内海曳船株式会社へ転職。外航船の代理店業務を担当し、故郷の仲間や兄の大学の後輩たちと共に堺・水島の代理店を支える。ギリシャの海運会社との契約を機に業務は激増。豪華客船の対応では、ミロのビーナスのようなスチュワーデスに迎えられたことも。後に内海シッピング株式会社として国内最大の外航船舶代理店へと成長。
水島転勤後、堺事務所の不祥事で全員解雇となり、私が立て直しに戻る。役目を果たし、年末に長崎の翔和メディックスへ転職。
翔和メディックスは、兄と中学の同級生3人で立ち上げた医薬品卸会社。入社当初は事務所もなく、何が何だか分からないまま日々が過ぎる。やがて本社が完成し、調剤薬局や冷凍倉庫、業務用食材店も開業。社長は福栄会の大宮町出身で、休日にはクルーザーで佐世保湾や五島灘を巡る。
営業では病院への飛び込み訪問、試飲販売、商店街への時計販売など、度胸試しの連続。外国人船員の医療サービスは経験済みで軽くこなす。調剤薬局の雑務や医師の送迎、麻雀の付き合いなど、礼儀の世界に苦戦しながらも、薬害・医療過誤の書籍に没頭し、知識を深める。
馬場ちゃんと共に県内の病院へ薬を配達し、社長と食材の買い付けに同行。タケノコを掘って医師宅へ届けたり、年末にはブリを冷凍車で配るなど、“裏口商法”を学ぶ。会議はスナックや喫茶店の雑談——まさに異次元の世界。
一年後、福岡営業所へ移動。
4.福岡営業所から広がる挑戦——実践力
福岡営業所では、実兄・馬場氏・薬剤師3名とともに、薬局運営・海外貿易・外国人船員の医療サービスを展開。私は新米ながら、外国人医療サービスの現場を担当し、本船への出迎えから診察・治療・検査・投薬・書類作成・送迎までを一貫して担いました。10年にわたり通訳として現場に立ち会い、全科目に及ぶ治療を見聞きした経験は、今も私の礎となっています。
香港製の自社ブランド・デジタル時計の輸入販売では、月1万個弱の販路を確立するも、大阪の大手バッタ屋にコピーされ一瞬で終焉。そんな中、佐世保のダイエー系スーパー「スーパーマルエー」の支配人(高校同期)との再会が転機となり、並行輸入品専門ショップとの展開へとつながりました。
店長との付き合いは中洲の飲み歩きから始まり、会社の二階の隙間で寝てもらうなど意気投合。以後、ラジカセ50台、鉄観音茶、革ジャン、はちみつ、ブランドバッグなどをキャラバン満載で納品。すべて言い値で買ってくれるという信頼関係が築かれました。
マルエー店頭販売では、同期や知人が見物に訪れるも誰も声をかけず、元剣道部仲間から「みっともない」と一喝される場面も。武雄店・伊万里店では法被姿で旗竿を振り、壱岐店の出張リサーチにも参加。店員たちと川棚海水浴場でウインドサーフィンを楽しみ、店長がジープを購入するほどの熱中ぶり。数年間、夢のような時間が続きました。
ウインドサーフィンは店内展示用の1台から始まり、イギリスブランドのレース艇20艇を香港から輸入。福岡の全レースに参戦し、十数年間“亡者”として没頭。全艇完売。
会社一階を改装して開設した漢方専門調剤薬局では、不妊に悩む薬剤師が自ら調剤し、三児を授かるという奇跡を目の当たりに。私は調剤プログラムの構築に挑戦するも、漢方医の第六感の必要性に気づき断念。
電話機事業では、兄と二人だけのメディックスユニズン株式会社を設立。香港・深圳で製造した壁掛ハンディーフォンは、黒と赤の配色に金文字のロゴが輝く逸品。嘉穂無線の若手担当者の「やってみましょう」で火がつき、九州全域のホームセンター・電気店に導入。車内泊を繰り返しながら九州制覇を達成。
年末には羽田に飛び、秋葉原の電気街を絨毯爆撃。東京拠点を確保し、ウィークリーマンションを拠点に半年で販路を構築。続いて大阪では友人宅に半年間泊まり込み、営業所スタッフと共に販路を拡大。友人の奥様には食事・洗濯など全面的に支えていただき、感謝の言葉も言えぬまま突然去ることに。昨年、その友人が亡くなり、通夜と葬儀に参列——鶴丸運輸以来50年の友人でした。
5.全国展開とDTP事業の立ち上げ——突破力
電話機事業では、広島・大阪・福岡の合同チームで東京田端のウィークリーマンションを拠点に、関東一円へのアタックを繰り返し、ほぼ全域で販路を確保。その後、東京板橋に事業所を開設し、スーパー・デパート・電機量販店との交渉を重ね、全国問屋7社との連携で販売網を七重に構築。晴海・池袋の電子機器フェアでは毎度会場随一の盛況を誇り、累計販売台数65万台、総売上約30億円を達成。
事業が軌道に乗ると、姪浜のコンビニ跡に事務所を構え、社内バンド「MEDIXバンド」を結成。アメリカ人ピアニストを迎え、ドラムスクールに通いながらイベント出演を重ね、アメリカンフェスティバルでは飛び入りの歌手と「Johnny be Goooo!」の熱演も。
その後、長崎・大村に電話機工場を建てる計画で東京から戻るも、実態は写植からデジタルへの移行期におけるスライド制作の支援。厳しい現場ながら、ギリギリまで挑戦を続けました。
長崎・思案橋横では、総チーク張りのライブハウスを3,000万円でオープン。装置も一級品ながら、管理人材が確保できず、後年売却。
一年後、福岡・大阪の全員が突然解雇され、退職金ゼロ。十年後に他の社員が満額受け取っていたことを知り、理不尽さを痛感するも、今は昔。
その後の会議で「これからはコンピュータたい」の一声から、Apple Macintosh IIfxを中心としたDTPシステムを導入。総額4,000万円の設備投資を経て、博多区呉服町にComputer DTPショップをオープン。スタッフ10名のうち、パソコンを扱えるのは3名のみ。営業経験者も動かず、喧嘩ばかりの混乱の中、別途スポンサーを導入し、3ヶ月後には月商400万円弱を達成。
DTP事業の成功の鍵は、九州大学教授からの「お試し一枚」。三角と丸と棒一本のシーソー図に渾身の力を注ぎ、教授から高評価を獲得。これが九大・福大・久留米大・製薬企業へとドミノ倒しのように広がり、国内No.1、世界No.1の評価を獲得。国際学会での発表でも「岡田のグラフィクスは別格」と評され、毎月220〜280万円の売上を長年キープ。総売上6億円を達成し、事故による中断がなければ10億円も視野に入っていた。
6.映像とDTPの深化——技術と表現
DTP事業では、出版社やカメラマンとの摩擦も経験。英語ベースの制作環境を巡る誤解や、写真と映像の本質をめぐる議論もあったが、私は現場で培った技術と感覚を信じてきた。写真は露出、映像は場数と忍耐——それが私の持論であり、実践の裏付けでもある。
一方で、地域との摩擦や不条理な契約トラブルも重なり、事業は一時中断。駐車場契約の不履行による経費増、敷金の過剰徴収、そして刑事告発に至る地域医療や動物虐待の問題——これらは私にとって、単なるトラブルではなく「社会との向き合い方」を問う試練でもあった。
2000年には賞金100万円の「インターネット・ビデオライブコンテスト」を開催。全国の音楽企業にポスターを発送し、65バンドが参加。ビデオ・写真・CD・歌詞・バンド紹介を編集し、各バンドの専用サイトを構築。得票数で順位を競い、掲示板で交流を促進。慶應義塾のバンドが優勝し、東芝EMIやSONYミュージックからの引き合い、テレビ局からの特集提案、日経年度版への掲載など、企画は大成功を収めた。
このプロジェクトは、新入社員と私の二人でやり切った。博多祇園山笠の密着撮影、DTP春の医学会シーズンと重なりながらも、不可能を可能にした半年間だった。
博多祇園山笠の映像記録は1998年から開始し、今年で27年目。一度も欠かすことなく撮影を続け、2000年には福岡市と博多祇園山笠振興会の公認サイトとなる。神事としての山笠を知ったときの衝撃は今も忘れない。東流れの総代からの一言で火がつき、放送局と同じDSR-300を購入。もう一台をリースし、二台体制で撮影に臨んだ。国金から400万円、手持ち400万円を合わせ、800万円を全投入。これが私の映像文化への覚悟だった。
7.計画趣旨:福栄会崩れTVプロジェクトとは
以下省略・・・
参考
大宮公園ステージ
https://www.youtube.com/watch?v=AHe1cJ8x67A
佐世保大宮稲荷商店街バス通り
https://www.youtube.com/watch?v=CQ-Rq-IMi2g
佐世保大宮稲荷商店街
https://www.youtube.com/watch?v=fa3wGLIqIAc